上井草まち歩記(あるき)
Volume 01 - 井草川の谷戸(やと)
上井草に谷戸の地名はありませんが、谷戸地形がみられます。
井草川源流部の行き止まりになった谷のことです。
現・杉並工業高校付近に、かつて湧水池がり、縄文人の暮らしが営まれていました。谷戸を見下ろす台地の縁から、見つかった土器は、井草式土器と名付けられ、縄文時代早期の標式土器になっています。
江戸時代には、千川上水から六ヶ村分水を経て用水が引き込まれ、谷戸に水田が開かれました。井草川の谷戸から、さらに4本のミニ谷戸が分かれ、一部に小川の跡がのこっています。
この上井草谷戸あるき約4kmのモデルコースを、10数名が参加して一緒に歩きました。
図1. 上井草 谷戸あるきマップ

- ※文中のタイトル数字はトップの地図中の番号に対応しています。
- ※文中の画像・写真はクリックすると拡大します。
0. 上井草スポーツセンター
上井草駅前を出発し、早稲田大学ラグビー部グランドと上井草スポーツセンターのあいだを歩きます。
上井草スポーツセンターは、かつて“職業野球”東京セネターズの本拠地・上井草球場があったところ。戦後一時期、六大学野球も行なわれました。
1. 原窪 (図2)
旧・上井草村と下石神井村の境の道(写真1)を行くと、ゆるやかな下り坂になり、今度は上り坂になります。上石神井南町5(写真2)あたりが最も低くなっています。
図2. 原窪地図

- 赤線で示したのが上井草村と下石神井村の境の道。
- 井草通りの東側は昭和10年代の区画整理で道が消失した。
- 「原窪」の浅い窪地は、西武新宿線の北側まで続く。川跡は残っていないが、青色点線あたりが窪地の底。
写真1. 原窪への村境道

- 原窪へくだる村境道
- 「くぼ」の地形特有のゆるい坂道
写真2. 原窪石神井南町

- 道の向こうが上石神井南町5
ここは、昔の下石神井村原窪。浅い窪地が、西武線を越えて北側まで続いています。このような長く浅い窪地に「何々くぼ(窪、久保)」の地名が付けられました。
1970年代まで流れていた千川上水は、原窪の低地を越えるため土堤を築き、その上に水路を設けて水を流していました。「築樋(ちくひ)」といいます。
ここに分水口があったように記された資料が散見されますが、悪水(大雨のときの溢水)が流れ落ちることはあっても、分水口はありませんでした。
2. 井草川最上流部
狭い遊歩道に熊にまたがった金太郎が描かれた車止めがたっています(写真3)。杉並区の水路敷の目印です。水路敷を活用して遊び場を整備した時期に、子供たちが安心して元気に遊べる場所であることから、金太郎と熊が相撲をとって遊ぶ話をイメージして作製したとのこと。
写真3. 怪しい探偵団金太郎前

- 井草川最上流部をみる谷戸あるき探偵団
ここが井草川の最上流部でした。金太郎車止めを囲むように50m等高線が通っています。武蔵野三大大湧水といわれた三宝寺池、善福寺池、井の頭池は、いずれも標高50m等高線で縁取られた谷頭(こくとう)から湧き出ています。 崖線の上がほぼ標高50m。崖下の水面が42〜43mです。
写真4

- 改修時に撤去される運命の金太郎
3. 橋跡と暗渠蓋かけ
道の脇の邪魔なコンクリート。これが実は橋の跡(写真5)。
写真5. 蓋かけと橋跡

- 暗渠蓋かけと、橋の跡のコンクリート
そこから下流には、暗渠蓋かけがのこっています。
川を下水化し暗渠にした際、上に蓋をかけ、人が歩けるようにしたものです。
杉並区内では、阿佐ヶ谷あたりに何カ所もみられますが、井草川では、最近、最上流部の蓋かけが撤去され(写真6)、写真5の1カ所のみになりました。今となっては、貴重な近代化遺産です。
写真6. 最近蓋かけ撤去

- 最近、暗渠蓋かけが消えた
4. 農芸高校農場西
ここで水路は2本に分かれていました。水の流れが失われたため、どっちが上流かよくわかりませんが、農場に沿って東から南の方へ向かう水路敷が、下流方向です(写真7)。
写真7. 農芸農場脇→下流

- 農芸高校農場脇の水路敷
商船三井社宅の北東角を左折したところからのこる水路敷が、井草川最上流部へ向かう上流部。
社宅の南側へ直進したのち左折して杉並工高の校地に飲み込まれているのが、もう1本の上流部です。
6. どき坂と谷戸の風景
杉並工業高校の西側に沿って下る坂を「どき坂」と名付けました。その理由は次項で。(※上井草碁盤坂マップでは、この坂は「縄文坂」になります。)
どき坂の上にたつと、坂が下りまた上っていく様子が観察できます。校舎や家並みをなかったことにして、雨の日に見渡すと、坂の下に水がたまり、池のようにも見えてきます。西側は家並みに遮られていますが、次第に地盤が高くなっていきます。これが谷戸の地形です。(写真9)
写真9. どき坂と谷戸の風景

- どき坂上から谷戸の地形を望む。右手が井草遺跡
このあたりの小名(村を細分する地域単位)が、「谷頭(やがしら)」でした。
やとじぃの考察では、もともとは「やと」と呼ばれていましたが、漢字で表記されるようになり、谷の頭に当たること、また井頭からの連想で「谷頭」の字を当て、こんどは文字に引きずられて「やがしら」と読むようになったのだろう、と思われます。千葉県四街道市に「谷当(やとう)」という町名があるのも傍証のひとつ。また、谷戸以外に、谷津、谷ツ、谷地など同系の変異地名があり、「やと」は必ずしも「谷戸」だったわけではありません。
谷戸地名の地形を調べると、「行き止まりになった短い谷」に付けられたことがわかります。
長い谷の途中は、たに(谷)または、や(谷・野)。浅く長い窪地は、くぼ(窪・久保)です。
武蔵台地では、台地に切れ込んだ短い谷に、「やと」地名がつけられました。多摩丘陵や奥多摩では、山を刻む短い谷が谷戸ですが、「久保ヶ谷戸」という折衷形もみられます。
荒川筋では「谷津」が多くみられます。関東の他地域や東北に行くと、谷戸からの変形が多いだけでなく、指示する地形も明確でなくなっていきます。
「やと地形=谷戸地名」が最も明確なのは武蔵野台地です。
図3. 谷戸の地形

- 練馬付近の谷戸。海老ヶ谷戸は北岸の小名だが谷戸地形があるのは南岸
7. 井草遺跡
どき坂付近の井草遺跡で見つかった縄文時代の土器に、「井草式土器」の名が付けられました。約9千~1万年前のものです。井草1式は、口縁部がやや反り返った丸底深鉢。2式は、砲弾形に近い尖底深鉢。どちらも、撚糸文(よりいともん)と呼ばれる文様がつけられています。
図4. 井草式土器

- 井草式土器
- 井草2式尖底深鉢
発見された当時は、日本最古の土器といわれましたが、その後、さらに古い土器が見つかり、縄文時代草創期が設定されたため、井草式土器は、縄文時代早期の標式土器と位置づけされました。井草式に類似した土器は、練馬区内をはじめ、関東地方各地でみつかっています。
井草式土器が見つかった場所なので「どき坂」。1万年の歴史の深層をのぞきにおりていく、歴史心をどきどきさせる坂です。あるいは、校外一周マラソンを走る杉並工高生たちにとって心臓破りのどきどき坂だったか。急坂を走りおりてくる自転車ガールの姿に、どきどきしてしまう男子高校生が呼んだ坂の名だったか。確たることは定かではありません。
写真10. 尾崎縄文早期土器切抜

- 尾崎遺跡(練馬区春日小学校)出土の縄文早期尖底土器
- 尖底深鉢と丸底深鉢
- (石神井公園ふるさと文化館蔵)
8. 切通公園への水路敷
どき坂下から切通公園へかけても、水路敷があります。地点5からの水路敷(写真11)は杉並工高に分断されていますが、それを延長すると、この水路敷につながります。
写真11. 商船三井から杉並工高へ水路敷

- 商船三井社宅から杉並工高への水路敷
9. 切通公園
川上水から青梅街道沿いに引かれた六ヶ村用水(時代によって五ヶ村用水とも)から「谷頭口」で分水し、現・切通公園の崖から滝のように落として、杉並工高のところにあった水田に水を引いていました。(写真12)
写真12. 切通公園滝跡

- 「昔はね、崖の上から滝のように水を落として田んぼに水を引いていたんですよぉ」(近所のご長寿さん)
10. 杉並工高南側の水路敷
校庭の南側に沿って水路敷があります。崖下を折れ曲がって続く狭い小径は、ちょっとした探検気分。雨が降ると水たまりができ、谷戸の気分をかもしだします。(写真13)
写真13. 杉並工高南側水溜り

- 雨が降ると水たまりが…
すると突然、崖の上に駐車場が迫ります。「このばしょはきけんです」の立て看板。確かにその通りです。しかし、このバス、どうやって駐めるのでしょう?(写真14)
写真14. あぶない駐車場

- このばしょはきけんです
11. 南のミニ谷戸
杉並工高の南から早稲田通りに向かって、もう1本のミニ谷戸があります。早稲田通りが一番低くなっている地点です。
谷頭(やがしら)は、全体が井草川の谷戸であり、さらに3本のミニ谷戸と1本の窪地が枝分かれした、複雑な地形をしています。この複雑さが、まちの表情を豊かにしています。
縄文人を住みつかせたのも、地形の魅力ゆえでしょうか。
12. 三谷公園(さんやこうえん)
噴水池が、往時の谷戸の池をどことなくイメージさせます(写真15)。井草川緑道の起点になっています(写真16)。
三谷は、旧・上井草村の小名。「さんや」は、通例、入会地のことをいいます。
写真15. 三谷公園噴水池

- 三谷公園の噴水
写真16. 三谷公園から井草川緑道

- これより井草川緑道
13. 崖線斜面の畑
崖線付近では、崖上の縁をけずった土で崖下を埋め、長年かけて畑を広げ、なだらかにしてきました。(写真17)
畑の崖線寄りは、普通、斜面林をのこし、堆肥作りに利用してきました。このような場所を「下がりやま」と呼んだ、と練馬区内の農家で聞きました。
写真17. 崖線斜面畑

- 奇跡的にのこった崖線斜面畑
写真18. 遊び場103番の草原

- その東隣り「遊び場103番」の草原
14. 農芸高校馬場
井草川緑道を散歩していて、生垣の向こうからひづめの音が聞こえてきてびっくりした、という方も多いのでは。農芸高校には馬術部があり、2011年春現在、2頭の馬が飼われています。馬場は、三谷公園の隣りの自転車集積場のそのまた隣りにあります(写真19)。校舎の近くの厩舎から、道路を歩いてくる馬の姿を目にすることも。これも上井草風景。
写真19. 農芸高校馬場乗馬

- 上井草でお馬の稽古
雨が降ると、馬場の雰囲気は一変し、たちまち沼が出現します。これも谷戸の風景。(写真20)
写真20. 雨の農芸馬場沼

- 雨が降るとたちまち沼に
15. 小川の合流点
切通公園のところにあった分水の落ち口からの流れは、現・杉並工高校庭を横切り、井草川緑道のほうに流れていました。井草川最上流部からの流れは、切通公園からのもう一本の水路を合わせ、三谷公園の東、地点15で合流していました。
どちらを本流というべきか。河川法では最大流長をもつほうを本流と定めていますが、水量の多寡は必ずしも一致しません。ここでも井草川最上流部からの小川が最大流長、切通公園からの流れが最大流量、という逆転現象がみられました。
16. 道灌橋之跡碑
文明九年(1477)太田道灌が豊島氏の石神井城を攻めたとき、ここで川を渡った、といわれます(写真21)。
写真21. 道灌橋之跡碑

- 地元有力者の小美濃氏がたてた
その南には道灌坂、そのまた南には道灌山。江古田原沼袋での緒戦に勝った道灌軍は、豊島氏本拠地の石神井川沿いを避け、妙正寺川~井草川沿いに迂回して進軍したと考えられます。その道は、古代官道の武蔵国府~豊島郡衙線の推定経路に沿い、また源義家・頼朝が奥州攻めに向かった道でした。(図5)
図5. 大田道灌の進軍推定経路

- 大田道灌の進軍推定経路(略図)
17. どんぐり山公園
崖線斜面林は、南岸のほうがよくのこっています。北向き斜面で日当りが悪く、しかも北風を受け、使いづらかったためです。これに対して北岸は、早くから開墾され、また宅地化されました。石神井川、黒目川など、みな同様です。どんぐり山もその一例。クヌギが何本もまとまって生えているのは、「たきぎ畑」として使われた名残りだと考えられます。
写真22. どんぐり山クヌギ林

- どんぐり山公園の崖線斜面林
- クヌギは、武蔵野雑木林の主要構成種のひとつだが、自然の状態では、他の木のあいだにぽつんぽつんと生え、純林は形成しない。ここのクヌギ林は、薪炭用に植林されたものだと思われる。
19. 瀬戸原
「背戸(裏木戸)のほうだから、せとはら」と地元のご長寿さんは語るそうですが、「せと、せど」のつく地名の大半は、両岸の谷が迫る地点で川が屈曲し、谷の向こうを見通せない場所につけられています。板橋区茂呂遺跡のある「オセド山」、飯能市「小瀬戸」、愛知県「瀬戸市」、そしてここ瀬戸原、みな同様の地形です。瀬戸内海も、海峡が屈曲し島影で向こうを見通せない海の門戸です。
写真24. 井草川緑道瀬戸原付近

- 瀬戸原付近のこんなに素敵な散歩道
20. 向山公園下からの水路敷
向山公園の下から井草川緑道に向かって狭い道があります(写真25)。
写真25. 向山公園下水路敷

- 向山公園下からの水路敷
- こんな小径にも歴史が……
水路敷は、正式には「公共溝路」と呼ばれ、多くが水田の畦畔の跡だ。明治期に施行された河川法によって、川・用水が国有地とされました。畦畔も国に寄付すれば国有地になり、税金が免除されたため、多くの農家が喜んで寄付しました。水田が消滅し、水路敷だけがのこされました。
ここまで約3km。話をしながら約2時間。おつかれさまでした。
やとじぃ記